固定残業代制が否定され、GPS記録等から実労働時間が算定された裁判例の紹介
2026年5月30日
弁護士 松田直弘
未払いの残業代の請求において、固定残業代制の成立が否定され、携帯電話のGPS記録や建物の警備記録から労働時間が認定された裁判例(東京地裁判決令和6年3月28日判決)を紹介します。
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事案の概要
本件は、情報処理システムに関する開発等を行う被告会社の元従業員である原告が、被告に対して未払い割増賃金などの支払いを求めた事案です。
被告は労働時間についてタイムカード等による客観的な管理を行っていませんでした。
争点
1.割増賃金の算定基礎となる賃金
2.未払割増賃金の有無及びその額
固定残業代制度の有効性について
固定残業代制度(定額残業代制)は、労働基準法37条が定める計算方法による割増賃金を支払う代わりに、あらかじめ定額の残業代を支払う制度です。この制度には、基本給の中に含めて支払う「基本給組入型」と、一定額の手当として支払う「手当型」の2つの類型があります。
最高裁判例や近時の下級審判例から導き出される、固定残業代制度が法的に有効と認められるための具体的な要件は、主に以下の3点に整理されます。
1. 固定支払いの合意の存在(契約の成立・有効性)
2. 明確区分性
3. 差額支払いの合意と実態(清算合意)
過重労働を前提とする設定のリスク:
固定残業代が予定する時間外労働の時間数があまりにも多い場合、無効とされるリスクがあります。
近時の裁判例では、月80時間や100時間といった過労死ラインを超える時間外労働を想定した固定残業代の合意は、公序良俗に反し無効と判断される傾向にあります。
2.明確区分性
通常の労働時間に対する賃金(基本給など)に当たる部分と、時間外・休日・深夜労働の割増賃金に相当する部分とが、「明確に区別できること」が必須要件です。
両者を明確に区別できなければ、割増賃金相当部分が法定額を満たしているか否かを判断できないためです
対価性の重視:
とくに手当型の場合、その手当が「割増賃金の支払いの性質を有していること(対価性)」が厳格に判断されます。
実務上の対策:
手当の一部に割増賃金とは異なる趣旨が混在していると判断されるのを防ぐため、手当の名称を「固定残業手当」などの明確なものとし、その全額が割増賃金(固定残業代)の支払いであることを就業規則等に明記することが適切です。
規定の必要性:
近時の最高裁判決では差額支払いの合意自体を有効要件と明言していないものもありますが、労働時間を適切に管理せず差額を支払うつもりがないような運用では制度自体が無効と評価されかねません。
そのため、就業規則等において「規定の固定残業手当の額を超えて割増賃金が発生した場合には、その差額を別途支給する」旨を明確に規定しておくことが不可欠です。
固定残業代の合意の有無について
1.会社側が根拠とした主な定め
会社側は、以下の定めやルールを根拠に、原告の基本年俸(月額給与)の中に月40時間分の固定残業代が含まれていると主張しました。
- 雇用契約書:月額賃金とともに「(残業代を含む。)」と記載されていました。
- 就業規則:「月間40時間が契約上の勤務時間に含まれるとみなしている」と記載されていました。
- 年俸制規定:「基本年俸を12か月で割って完全月給制とする。年俸制なので残業代は不支給」と記載されていました。
- 社内ルール:「退社時間は遅くともPM9時までとします」と記載されていました。会社側は、これが終業時刻(午後6時30分)から午後9時までの間(休憩30分を除く)の「1日2時間・月40時間分」の固定残業代が含まれていることを示していると主張しました。
2.裁判所の具体的な評価
裁判所はこれらの定めを検討した結果、以下の理由から固定残業代の合意を全面的に否定しました。
1.通常の賃金と割増賃金の判別が不可能
雇用契約書の「残業代を含む」という記載や、就業規則の「月間40時間が含まれる」という記載だけでは趣旨が明確ではなく、原告に支払われた年俸のうち、通常の労働時間の賃金に当たる部分と割増賃金(残業代)に当たる部分とを明確に判別することができないと判断しました。
2.「残業代は不支給」とする規定との矛盾
年俸制規定において「残業代は不支給」と明記されていることも併せ考えると、基本年俸の中に月40時間分の固定残業代が支払われているとは到底認められないと評価されました。
3.社内ルールに対する否定的な評価
会社側が強く主張した「午後9時退社」の社内ルールについては、そもそも就業規則ではないと指摘されました。
さらに、ルール内に「午後9時を超える作業実施は人事評価で評価が下がる要因となる」と記載されていたことから、これは単なる人事評価の観点からの記載であるとも解釈できるとされました。
加えて、会社が主張する「休憩時間30分」についての言及もルール内に一切ないため、これを「1日2時間・月40時間分の固定残業代が含まれていることの根拠」と解釈することはできないと一蹴されました。
結論として、裁判所はこれらの定めから固定残業代の合意があったとは認めず、未払い割増賃金の算定にあたっては、月額給与を月の平均所定労働時間で割って算出した金額を基礎とすべきだと判断しました。
実労働時間の認定にあたって
未払い割増賃金の有無およびその額について、裁判所は、被告(会社)がタイムカード等による客観的な労働時間管理を行っていなかったことを踏まえ、原告が提出した証拠(メール、GPS記録、警備記録など)の信用性を時期ごとに検討し、以下のように判断しました。
原告は、自身が送信したメールの時刻や、連続して送信されていることなどを根拠に、その時間帯の労働時間を主張しました。
【裁判所の判断】
裁判所は、メールによる労働時間の認定を退けました。
理由は、メールは社外からでも送信可能であり、所定の始業時刻前や終業時刻後にメールを送信したからといって、その時点から継続して会社の指揮命令下で労務を提供していたとは認められないと判断したためです。
この期間については、会社側から明確な業務指示があった休日出勤日など、個別に労働が証明された日のみ割増賃金が認められました。
原告は、スマートフォンのGPS記録、ビルの警備記録(入退館記録)、および会社サーバー(会社ホルダー)へのファイル保存記録を証拠として提出し、実労働時間を主張しました。
【裁判所の判断】
1.GPS記録の信用性の評価:
会社側は「GPSの記録地が近隣の居酒屋などになっている」として信用性を争いましたが、裁判所はこれを誤差の範囲であるとしました。
GPSによる滞在時刻とビルの警備記録がおおむね近接していることや、社内からしか保存できない会社サーバーへの保存記録と矛盾しないことから、GPS記録は相当程度信用できると評価しました。
2.始業時刻の認定:
所定始業時刻(午前9時30分)前にメールを送信していても、それだけで継続的な労働があったとは認めず、原則として所定始業時刻を始業と認定しました(顧客との面談など、明確な個別証拠がある日を除く)。
3.終業時刻の認定:
裁判所は、社長が原告の居残りを認識していたことや、業務以外の事柄に従事していた形跡がないことから、GPS記録上事務所にいたと推認できる時間は継続して労働していたと認めました。
終業時刻の具体的な計算方法として、「GPS記録の終了時刻」と「警備記録の退館時刻の2分前」を比較し、早い方の時刻を終業時刻として認定するルールを採用しました(※鍵をキーボックスに戻して警備を開始するまでに1、2分要するため)。
原告は、この期間について具体的な記録を提出せず、以前の期間(720日間)の平均残業時間から推計して割増賃金を請求しました。
【裁判所の判断】